若き真言僧侶たちの脚本とプロの技術が1つになった話題の映画『高野山への道』の情報とこぼれ話をお届けします!
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平成20年6月28日
当会主催の『寺院建築文化講演会』が倉敷芸文館大ホール(680名動員)にて開催された。宮大工・小川三夫棟梁と作家・塩野米松氏の対談が実現し、大盛況だった。会の冒頭、映画予告編を上映、観客から多くの反響を頂戴した。この時点では5月の調査の模様をイメージとして採用する。撮影、編集は専門の技術者に発注、音楽は沖縄のミュージシャン・日出克氏のご提供頂いた。
当会主催の『寺院建築文化講演会』が倉敷芸文館大ホール(680名動員)にて開催された。宮大工・小川三夫棟梁と作家・塩野米松氏の対談が実現し、大盛況だった。会の冒頭、映画予告編を上映、観客から多くの反響を頂戴した。この時点では5月の調査の模様をイメージとして採用する。撮影、編集は専門の技術者に発注、音楽は沖縄のミュージシャン・日出克氏のご提供頂いた。
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平成20年5月
会員による調査隊が結成され、現地に向かう。以下は同行下さったOB・吉田宥禪師による調査日誌である。
「高野山への道~飛翔三鈷を求めて」 OB 吉田宥禪

「吉野より南に行くこと一日にして、更に西に向つて去ること両日程、平原の幽地有り。名けて高野といふ。」
お大師さまが、お書きになられた文章に憧れ、吉野山へ進路を取った。今年二月、四国のお遍路に付いて学ぼうと、備中青年教師会がお招きした阿闍梨浅井證善僧正の「霊力は道にあり」というお言葉が、我々を導く。若きお大師さまが歩まれた道を、同じように歩かせて頂くことによって得られる何か、それを求める追体験の旅である。曼浄衣に網代笠、錫杖、手甲脚絆に地下足袋という出で立ちの行者が会長を筆頭に5名、補助隊員としてOB2名、カメラマン1名の協力も得た。
備中よりの移動時間は4時間。その行程を休憩を一度も挟まずに突っ切ろうとする増井OB隊員の興奮を落ち着かせながら、世間で心配している台風情報どこ吹く風の晴天の中、吉野山へ入る。青い空にくっきりと浮かび上がった蔵王堂の勇壮な姿に胸が躍る。如意輪寺、後醍醐天皇廟を拝し、大日寺のご住職、本岡幹隆師にお話を伺う。師は、眼光鋭いお方で、行者として山を知り尽くされておられる。単刀直入にお大師さまのお歩きになられた道について伝えられていることをお尋ねすると、ハッキリと「ない!」と答えられた。被せるように付近に残るお大師さま所縁のものと伝わっている事柄を二つ程伺うと、「違う!」と気持ちよく仰られた。その後に続けられた言葉に衝撃があった。「例えば、そのお寺に伝わっている伝説があったとしても、そのお寺の本当の創建を知らねばならない。恐らく江戸初期だろう。そこは未開の地、高野山にお寺がない時代に、ある筈がない。」目から鱗だった。吉野から高野へ向かわれたのは事実だが、道を調べよ、伝聞に惑わされるなと気付かされた気がした。
現代風に表現すると、吉野は奈良の都の別荘地のような所らしい。平城京から吉野山は車で行くとあっという間に着く。一山超えれば吉野山だ。また、高野山付近は、もとは吉野の管轄地であったらしい。ということは、山に住む者達は、当たり前のように地形を把握している。だから、特別な道ではないと断言された。そうか、お大師さまもその者達に道を聞かれて向かわれたに違いない。庶民の流通の道だ。例えば、今後その地に何かを創られるとしたら、物資は食料はどうするのか?人の行き来が必ずある。困難な道を行くより、誰でもが歩ける道に違いないと一同確信した。
吉野はお大師さま以前より開かれていたのは明らかである。大日寺も既に存在していたらしい。お大師さまが、この大日寺をご存知で来られたことがあるという証拠を教えて頂いた。それは、お大師さまがお書きになられた「聾瞽指帰/ろうこしいき」にある。その序文に「本朝日雄人述睡覺記」とある。その日雄人(ひのおのひと)というのが、近年まで全く不明とされていた。しかしながら、本岡師は、日雄というのは、この付近にのみ存在する地名で、この大日寺は、昔は「日雄寺」と称していたと仰られた。実は、ご本人も気付いておらず、高野山大学の和多秀乘元学長より知らされたそうだ。日雄人は、日雄寺の当時の住職で、お大師さまは、こちらをお尋ねになられ高野へ向かわれたのは確実であろう。この地こそ出発の場であるということを知り、喜びを隠せなかった。また、天河大辨財天社の正面にある来迎寺が、大峰の奥駆けの行者の参集場所であることなど、ヒントをちりばめながらのご教示、大いにお力を頂いた。
地蔵峠の地蔵堂を参詣し、予定にはなかったが、鳳閣寺へ向かう。山の天気は変わりやすく、既に雨になっていた。舗装された急な斜面を雨具を着けた一行が進む。舗装された道の歩き難さを充分味わった頃に到着した。本堂はお世辞にも美しいとは言えないが、歴史の重みは流石に感じる。このお寺は、理源大師(聖宝尊師)の御廟がある所で、この裏山に祀られているとの案内板を見て、事前に御廟まで25分との情報を得ていた我々は、迷いなく山へ入った。しかし、行けども行けども道標一つない。15分程進んだ頃だろうか、迷ったのではないかという不安がよぎった。「熊注意」にも怯えていた。しかし、あと10分もすればと先を急ぐ。しかし、ない。裏山という言葉を頼り、分かれ道があっても上へ上へと進む。一時間も彷徨っただろうか、先の方から「あったぞ~」との声が響いた。少し遅れて到着すると照れ笑いの一団があった。
御廟ではない。山頂に祀られている社だった。立て札に百貝山(840m)山頂の文字、山頂か、大したもんだ。そこで、理源大師の廟塔の道標を目にする。一行は下山の途へ。可成りな距離を歩いたようにも思う。廟塔の真後ろより降りてきた。各自拝礼し、延々と続く急な坂道に足をとられながらの下山。それぞれが同じ想いを持つ。この山の中、迷ったとはいえ迷ったからこそ廟塔へ辿り着いたのではなかろうか。それほど、これを登るのは可成りつらいと思わせる休む場所もない坂道だった。登り始めた所と、正反対の山から降りてきたずぶ濡れの我々。大笑いの声も雨にかき消された。
小南峠を越え、洞川の宿舎「旅館紀の国屋甚八」に宿を取る。ゆっくりと入浴し疲れを癒す。不思議な現象があった。夕食の時、地震かと思うくらい激しくガラス戸が揺れ10秒程ではあったが、いや、今思えば充分10秒の間、外を大きな何かが通った。「龍?」「トトロの猫バス?」そんな感じだった。外へ出ると雨が上がって、空には星が瞬いていた。二度三度と同じようにガラス戸が揺れれば、台風のせいにも出来るが、ただ一回だけの出来事。ここは洞川、龍神さまの挨拶としておこう。
早朝5時に龍泉寺を参拝し、お水を頂戴する。あらかじめ一枚300円で借りたフンドシを着け、役行者の祀られている行場で水垢離をする。丁寧なお見送りを承け、天河大辨財天社を参詣し散策をしていると、柿坂神酒之祐宮司にお会いできた。お大師さまの歩かれた道を調査していることを申し上げると、その道はよく知っていると言われる。ここから高野山へ向けて高野道というのがあったそうだ。今では通れなくなったが、ここから西の山を登り尾根伝いに行けば8時間で高野山に着く。小さい時は襖を蹴倒して駄々をこね無理矢理連れて行ってもらった。楽しかった。夜中の3時に提灯を持って山を登り、昼前には高野山に着いていた。途中明け方に豆腐を干している風景が今でも目に浮かぶと、にこやかに語られた。尾根伝い、つまりは頂上付近に生活の道があった。その道は決して険しくはなかったそうだ。今では道路が整備されたので気付かれなくなった道が確かにある。その道は当時、当たり前のように生活道として往来があった。大日寺の本岡師のお話と共通するではないか。その道を伝え聞く方が何人かおられるらしい。その方に、ご教示頂ける日が来ることを望みながら脚絆を着けた。
来迎寺の大銀杏を拝見し、お大師さまには結びつかないが、栃尾観音の円空仏を拝見した。光流寺、不動滝、野川弁財天と巡り、野川上村から天狗木峠を目指す。長らく人が足を踏み入れていないであろうと思われる地図にない最短距離の道を駆け上がれと促す。補助の増井OB隊員と私は、緊急の自動車を天狗木峠にまわし行者の到着を待つ。平面距離にして1キロ程度。待てども来ない。45分位経っただろうか、汗が吹き出した赤ら顔の行者達が、フラフラになって上がって来た。昨晩の雨の影響で道がぬかるんでいる上に、急な傾斜が続き、おまけに道が途切れていて迷ったらしい。人間の通る道なのかとの問いかけに「たぶん」としか答えられなかった。「大峰吉野歴史街道」という石の碑がなければ、恨まれたかもしれない。
ここからはなだらかな下り坂、桜峠から舗装された道を外れ、山の道を行く。地図を健脚に託し、OB2名は、お大師さまの御廟で待つ。静まり返った御廟の裏山。行者の無事を願い手を合わせて瞑想をする。今どの辺りだろう。微かに響くであろう錫杖の音を聞き漏らすまいと、ただ静けさの中に身を置く。しかし、なかなか聞こえてこない。どうしたんだと焦る補助OB隊員。すると、ヒタヒタと静かな足音と共に現れた行者達。錫杖を宙に浮かせ音を立てずに歩いている。お大師さまの瞑想の妨げにならぬよう歩いている。喜びを噛み締めて歩いている。おお。そのまま静かに我々も合流し、御廟を参拝してこの調査を納めた。
お大師さまの吉野山よりの道は、修行の為の険しい道ではなく生活道であると感じることが出来た。恐れ多い感情に阻まれその当たり前のことに気付かなかった。故に高野七口であるとか、縦横無尽に走る山上の道が存在するのだ。お大師さまは唐より三鈷を投げられ、三鈷を探して高野山に辿り着いたとされる。しかし、「空海少年の日、好むで山水を渉覧せしに、吉野より南に行くこと一日にして、更に西に向つて去ること両日程、平原の幽地有り。名けて高野といふ。」と自ら示されたように、高野の存在はご存知であった。既に少年の日に有形無形を問わず三鈷は高野の松に掛かっていた。将来、そこが修行の道場になることも判っておられた。今現在の高野山のあり方もお見通しであられたに違いない。少年の日に突き立てられた三鈷は、今なお加持力を発し、多くの者を高野へ誘う。ある者は修行の道場として、ある者は救いを求めて、また、ある者はお大師さまとの出会いを信じて。
すべての高野山に通じる時代を超えた道が、お大師さまに導かれた道で、それを「三鈷の道」と言うのではないのだろうか。
【『高野山への道』行程】
5/13(火)
06:00 倉敷 出発(笠岡 出発)
10:30 吉野山 到着 金峯山寺 参詣
11:00 昼食
12:15 転法輪寺 後醍醐天皇廟 参詣
13:00 大日寺 参詣
15:00 地蔵峠 鳳閣寺 理源大師廟 参詣
16:45 小南峠
17:00 宿舎 旅館紀の国屋甚八
5/14(水)
05:00 洞川 龍泉寺 参詣
08:00 宿舎 出発
08:30 天河大弁財天社 参詣
10:00 来迎寺 参詣
10:30 栃尾観音 円空仏拝見
11:30 光流寺 参詣断念
12:00 野川弁財天 参詣
13:15 天狗木峠 到着
13:30 桜峠
14:30 高野山 御廟 解散
会員による調査隊が結成され、現地に向かう。以下は同行下さったOB・吉田宥禪師による調査日誌である。
「高野山への道~飛翔三鈷を求めて」 OB 吉田宥禪
「吉野より南に行くこと一日にして、更に西に向つて去ること両日程、平原の幽地有り。名けて高野といふ。」
お大師さまが、お書きになられた文章に憧れ、吉野山へ進路を取った。今年二月、四国のお遍路に付いて学ぼうと、備中青年教師会がお招きした阿闍梨浅井證善僧正の「霊力は道にあり」というお言葉が、我々を導く。若きお大師さまが歩まれた道を、同じように歩かせて頂くことによって得られる何か、それを求める追体験の旅である。曼浄衣に網代笠、錫杖、手甲脚絆に地下足袋という出で立ちの行者が会長を筆頭に5名、補助隊員としてOB2名、カメラマン1名の協力も得た。
備中よりの移動時間は4時間。その行程を休憩を一度も挟まずに突っ切ろうとする増井OB隊員の興奮を落ち着かせながら、世間で心配している台風情報どこ吹く風の晴天の中、吉野山へ入る。青い空にくっきりと浮かび上がった蔵王堂の勇壮な姿に胸が躍る。如意輪寺、後醍醐天皇廟を拝し、大日寺のご住職、本岡幹隆師にお話を伺う。師は、眼光鋭いお方で、行者として山を知り尽くされておられる。単刀直入にお大師さまのお歩きになられた道について伝えられていることをお尋ねすると、ハッキリと「ない!」と答えられた。被せるように付近に残るお大師さま所縁のものと伝わっている事柄を二つ程伺うと、「違う!」と気持ちよく仰られた。その後に続けられた言葉に衝撃があった。「例えば、そのお寺に伝わっている伝説があったとしても、そのお寺の本当の創建を知らねばならない。恐らく江戸初期だろう。そこは未開の地、高野山にお寺がない時代に、ある筈がない。」目から鱗だった。吉野から高野へ向かわれたのは事実だが、道を調べよ、伝聞に惑わされるなと気付かされた気がした。
現代風に表現すると、吉野は奈良の都の別荘地のような所らしい。平城京から吉野山は車で行くとあっという間に着く。一山超えれば吉野山だ。また、高野山付近は、もとは吉野の管轄地であったらしい。ということは、山に住む者達は、当たり前のように地形を把握している。だから、特別な道ではないと断言された。そうか、お大師さまもその者達に道を聞かれて向かわれたに違いない。庶民の流通の道だ。例えば、今後その地に何かを創られるとしたら、物資は食料はどうするのか?人の行き来が必ずある。困難な道を行くより、誰でもが歩ける道に違いないと一同確信した。
吉野はお大師さま以前より開かれていたのは明らかである。大日寺も既に存在していたらしい。お大師さまが、この大日寺をご存知で来られたことがあるという証拠を教えて頂いた。それは、お大師さまがお書きになられた「聾瞽指帰/ろうこしいき」にある。その序文に「本朝日雄人述睡覺記」とある。その日雄人(ひのおのひと)というのが、近年まで全く不明とされていた。しかしながら、本岡師は、日雄というのは、この付近にのみ存在する地名で、この大日寺は、昔は「日雄寺」と称していたと仰られた。実は、ご本人も気付いておらず、高野山大学の和多秀乘元学長より知らされたそうだ。日雄人は、日雄寺の当時の住職で、お大師さまは、こちらをお尋ねになられ高野へ向かわれたのは確実であろう。この地こそ出発の場であるということを知り、喜びを隠せなかった。また、天河大辨財天社の正面にある来迎寺が、大峰の奥駆けの行者の参集場所であることなど、ヒントをちりばめながらのご教示、大いにお力を頂いた。
地蔵峠の地蔵堂を参詣し、予定にはなかったが、鳳閣寺へ向かう。山の天気は変わりやすく、既に雨になっていた。舗装された急な斜面を雨具を着けた一行が進む。舗装された道の歩き難さを充分味わった頃に到着した。本堂はお世辞にも美しいとは言えないが、歴史の重みは流石に感じる。このお寺は、理源大師(聖宝尊師)の御廟がある所で、この裏山に祀られているとの案内板を見て、事前に御廟まで25分との情報を得ていた我々は、迷いなく山へ入った。しかし、行けども行けども道標一つない。15分程進んだ頃だろうか、迷ったのではないかという不安がよぎった。「熊注意」にも怯えていた。しかし、あと10分もすればと先を急ぐ。しかし、ない。裏山という言葉を頼り、分かれ道があっても上へ上へと進む。一時間も彷徨っただろうか、先の方から「あったぞ~」との声が響いた。少し遅れて到着すると照れ笑いの一団があった。
御廟ではない。山頂に祀られている社だった。立て札に百貝山(840m)山頂の文字、山頂か、大したもんだ。そこで、理源大師の廟塔の道標を目にする。一行は下山の途へ。可成りな距離を歩いたようにも思う。廟塔の真後ろより降りてきた。各自拝礼し、延々と続く急な坂道に足をとられながらの下山。それぞれが同じ想いを持つ。この山の中、迷ったとはいえ迷ったからこそ廟塔へ辿り着いたのではなかろうか。それほど、これを登るのは可成りつらいと思わせる休む場所もない坂道だった。登り始めた所と、正反対の山から降りてきたずぶ濡れの我々。大笑いの声も雨にかき消された。
小南峠を越え、洞川の宿舎「旅館紀の国屋甚八」に宿を取る。ゆっくりと入浴し疲れを癒す。不思議な現象があった。夕食の時、地震かと思うくらい激しくガラス戸が揺れ10秒程ではあったが、いや、今思えば充分10秒の間、外を大きな何かが通った。「龍?」「トトロの猫バス?」そんな感じだった。外へ出ると雨が上がって、空には星が瞬いていた。二度三度と同じようにガラス戸が揺れれば、台風のせいにも出来るが、ただ一回だけの出来事。ここは洞川、龍神さまの挨拶としておこう。
早朝5時に龍泉寺を参拝し、お水を頂戴する。あらかじめ一枚300円で借りたフンドシを着け、役行者の祀られている行場で水垢離をする。丁寧なお見送りを承け、天河大辨財天社を参詣し散策をしていると、柿坂神酒之祐宮司にお会いできた。お大師さまの歩かれた道を調査していることを申し上げると、その道はよく知っていると言われる。ここから高野山へ向けて高野道というのがあったそうだ。今では通れなくなったが、ここから西の山を登り尾根伝いに行けば8時間で高野山に着く。小さい時は襖を蹴倒して駄々をこね無理矢理連れて行ってもらった。楽しかった。夜中の3時に提灯を持って山を登り、昼前には高野山に着いていた。途中明け方に豆腐を干している風景が今でも目に浮かぶと、にこやかに語られた。尾根伝い、つまりは頂上付近に生活の道があった。その道は決して険しくはなかったそうだ。今では道路が整備されたので気付かれなくなった道が確かにある。その道は当時、当たり前のように生活道として往来があった。大日寺の本岡師のお話と共通するではないか。その道を伝え聞く方が何人かおられるらしい。その方に、ご教示頂ける日が来ることを望みながら脚絆を着けた。
来迎寺の大銀杏を拝見し、お大師さまには結びつかないが、栃尾観音の円空仏を拝見した。光流寺、不動滝、野川弁財天と巡り、野川上村から天狗木峠を目指す。長らく人が足を踏み入れていないであろうと思われる地図にない最短距離の道を駆け上がれと促す。補助の増井OB隊員と私は、緊急の自動車を天狗木峠にまわし行者の到着を待つ。平面距離にして1キロ程度。待てども来ない。45分位経っただろうか、汗が吹き出した赤ら顔の行者達が、フラフラになって上がって来た。昨晩の雨の影響で道がぬかるんでいる上に、急な傾斜が続き、おまけに道が途切れていて迷ったらしい。人間の通る道なのかとの問いかけに「たぶん」としか答えられなかった。「大峰吉野歴史街道」という石の碑がなければ、恨まれたかもしれない。
ここからはなだらかな下り坂、桜峠から舗装された道を外れ、山の道を行く。地図を健脚に託し、OB2名は、お大師さまの御廟で待つ。静まり返った御廟の裏山。行者の無事を願い手を合わせて瞑想をする。今どの辺りだろう。微かに響くであろう錫杖の音を聞き漏らすまいと、ただ静けさの中に身を置く。しかし、なかなか聞こえてこない。どうしたんだと焦る補助OB隊員。すると、ヒタヒタと静かな足音と共に現れた行者達。錫杖を宙に浮かせ音を立てずに歩いている。お大師さまの瞑想の妨げにならぬよう歩いている。喜びを噛み締めて歩いている。おお。そのまま静かに我々も合流し、御廟を参拝してこの調査を納めた。
お大師さまの吉野山よりの道は、修行の為の険しい道ではなく生活道であると感じることが出来た。恐れ多い感情に阻まれその当たり前のことに気付かなかった。故に高野七口であるとか、縦横無尽に走る山上の道が存在するのだ。お大師さまは唐より三鈷を投げられ、三鈷を探して高野山に辿り着いたとされる。しかし、「空海少年の日、好むで山水を渉覧せしに、吉野より南に行くこと一日にして、更に西に向つて去ること両日程、平原の幽地有り。名けて高野といふ。」と自ら示されたように、高野の存在はご存知であった。既に少年の日に有形無形を問わず三鈷は高野の松に掛かっていた。将来、そこが修行の道場になることも判っておられた。今現在の高野山のあり方もお見通しであられたに違いない。少年の日に突き立てられた三鈷は、今なお加持力を発し、多くの者を高野へ誘う。ある者は修行の道場として、ある者は救いを求めて、また、ある者はお大師さまとの出会いを信じて。
すべての高野山に通じる時代を超えた道が、お大師さまに導かれた道で、それを「三鈷の道」と言うのではないのだろうか。
【『高野山への道』行程】
5/13(火)
06:00 倉敷 出発(笠岡 出発)
10:30 吉野山 到着 金峯山寺 参詣
11:00 昼食
12:15 転法輪寺 後醍醐天皇廟 参詣
13:00 大日寺 参詣
15:00 地蔵峠 鳳閣寺 理源大師廟 参詣
16:45 小南峠
17:00 宿舎 旅館紀の国屋甚八
5/14(水)
05:00 洞川 龍泉寺 参詣
08:00 宿舎 出発
08:30 天河大弁財天社 参詣
10:00 来迎寺 参詣
10:30 栃尾観音 円空仏拝見
11:30 光流寺 参詣断念
12:00 野川弁財天 参詣
13:15 天狗木峠 到着
13:30 桜峠
14:30 高野山 御廟 解散
平成20年春
企画を挙げ、説明を繰り返し、議会にて御承諾を頂きました。テーマは空海さまが青年期に歩かれた吉野から高野山へのルート調査と踏破、また帰唐後、高野山をお求めになられたエピソードなどを紹介し、今では容易く上山出来る高野山の本当の有り難さを紹介し、空海さまが如何なる情熱をもって開山という大事業を手掛けられたのか…。これをドキュメントとして紹介する案で一応まとまりました。
企画を挙げ、説明を繰り返し、議会にて御承諾を頂きました。テーマは空海さまが青年期に歩かれた吉野から高野山へのルート調査と踏破、また帰唐後、高野山をお求めになられたエピソードなどを紹介し、今では容易く上山出来る高野山の本当の有り難さを紹介し、空海さまが如何なる情熱をもって開山という大事業を手掛けられたのか…。これをドキュメントとして紹介する案で一応まとまりました。
平成19年秋
高野山真言宗備中宗務支所は高野山真言宗の備中地区を統括する組織です。その支所で7年に一度『特別伝道』と称し、備中地域の檀信徒を布教教化する大行事を催します。今年は正にその1年に辺り、昨年より計画が進められてきました。
青年教師会はその支所の若い僧侶の集う組織で、伝統として『特別伝道』には出仕し、最前線でお手伝いしてまいりました。今からちょうど7年前には2,000 人の埋まる大ホールでお芝居を演じました。その講演が大好評を博し、今回も「芝居はどうか?」と諸先輩から新作もしくは再演のお話が挙がりました。
その話が挙がったのが丁度、去年の夏ごろだったと思います。しかし会場を押さえる段階になって、倉敷の大ホールがリニューアル工事となり、使用が不可能とな りました。別会場でさまざまなシュミレーションを重ねましたが、規模が小さくなり、代案が出ないまま議論が重ねられました。
そんな折、この備中から高野山へ大挙参拝してはどうか?という案が挙がりました。旅行会社によるツアーは毎日のように出発していますが、住職たちが一丸となって祖山に 参拝し、山上の道場にて大法要を勤める。7年後に宗団を上げての50年ぶりの大行事『高野山開創千二百年法要』に向けてのきっかけとしよう…と話がまとま りました。
こうなると「青年教師会は高野山にて芝居をするのか?」という話に展開しました。しかし、会員が1人も欠けることなく、完全なる演劇が可能なのか?急な法務に追われる住職の立場でいかがなものか?不安な意見ばかりが飛び出しました。
そんな時、「車中伝道」として、高野山、空海さまの素晴らしさを高野山に登るバスの道中で上映してみようというアイデアがまとまり始めました。これならば、前もって撮影した物を編集出来ますし、時間はかかりますが、会員やOBが何らかの形で協力出来ます。また今後も布教材料として上映が出来る。備中地域だけでなく、全国に発信することも可能になります。7年後の開創法要に向けて、善いきっかけになれば、それに代わる喜びはありません。
高野山真言宗備中宗務支所は高野山真言宗の備中地区を統括する組織です。その支所で7年に一度『特別伝道』と称し、備中地域の檀信徒を布教教化する大行事を催します。今年は正にその1年に辺り、昨年より計画が進められてきました。
青年教師会はその支所の若い僧侶の集う組織で、伝統として『特別伝道』には出仕し、最前線でお手伝いしてまいりました。今からちょうど7年前には2,000 人の埋まる大ホールでお芝居を演じました。その講演が大好評を博し、今回も「芝居はどうか?」と諸先輩から新作もしくは再演のお話が挙がりました。
その話が挙がったのが丁度、去年の夏ごろだったと思います。しかし会場を押さえる段階になって、倉敷の大ホールがリニューアル工事となり、使用が不可能とな りました。別会場でさまざまなシュミレーションを重ねましたが、規模が小さくなり、代案が出ないまま議論が重ねられました。
そんな折、この備中から高野山へ大挙参拝してはどうか?という案が挙がりました。旅行会社によるツアーは毎日のように出発していますが、住職たちが一丸となって祖山に 参拝し、山上の道場にて大法要を勤める。7年後に宗団を上げての50年ぶりの大行事『高野山開創千二百年法要』に向けてのきっかけとしよう…と話がまとま りました。
こうなると「青年教師会は高野山にて芝居をするのか?」という話に展開しました。しかし、会員が1人も欠けることなく、完全なる演劇が可能なのか?急な法務に追われる住職の立場でいかがなものか?不安な意見ばかりが飛び出しました。
そんな時、「車中伝道」として、高野山、空海さまの素晴らしさを高野山に登るバスの道中で上映してみようというアイデアがまとまり始めました。これならば、前もって撮影した物を編集出来ますし、時間はかかりますが、会員やOBが何らかの形で協力出来ます。また今後も布教材料として上映が出来る。備中地域だけでなく、全国に発信することも可能になります。7年後の開創法要に向けて、善いきっかけになれば、それに代わる喜びはありません。
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